第一章
これまで競馬ラボでは戸崎圭太騎手、川田将雅騎手、内田博幸騎手、C.ルメール騎手などトップジョッキーと安藤勝己による騎乗討論をお届けしてきたが、本年度は現役の馬主、それも中山馬主会会長という要職を務める西川賢オーナーとの特別対談が実現。弱冠20歳で馬主免許を取得し、所有馬のほとんどが自家生産というオーナーブリーダーが、一流の元騎手とだからこそ分かち合える競馬会への提言を打ち明けてくれた。

すでに45年超の馬主歴

安藤勝己元騎手:早いもので引退してからもう2年。馬にはその4カ月くらい前から乗ってないのかな。西川会長とは引退した年の有馬記念の時に東スポで対談をやりましたね。ちょくちょく馬主席ではご挨拶させてもらっていますが、今回もよろしくお願いします。

西川賢オーナー:こちらこそ。僕はアンカツさんのファンだったし、馬券を買うと大体半分以上は(馬券圏内に)来ていましたものね。それで、ウチの親父()がたまに馬券を買うとバンバン当たるんですよ。テレビを観て「アンカツが出てる、アンカツだ!」と言って、馬券を買ってたの。馬は知らなくても、アンカツさんが乗っているから、と言って、馬券を買ってましたよ。1日に2レースくらいしかやらないのですよ。それでも随分当たってましたよね。やっぱり地方から来たということと、がむしゃらにやっている姿勢を感じたのでしょうね。僕もそこに共感して、いつか強い馬に乗ってもらいたいなと、乗ってもらえるような馬をつくりたいなと思っている内に引退されちゃって。

(芸能プロダクションの新栄プロ会長、有限会社北西牧場(現:ウエスタンファーム)の創業者である西川幸男氏)

安藤:(2011年5月に)ウエスタンディオで勝たせてもらいましたね。

西川:浅いレース(500万下)でしたね。それでも嬉しかったですよ。親父もすごく喜んでくれて、馬券も獲って。あとはダイワさんの馬にしょっちゅう乗っていましたし、特に天皇賞(秋)の時は忘れられませんね。あれが一番インパクトあるんじゃないですか。負けて悔しいというね。アンカツさんもそうでしょ?

安藤勝己×西川オーナー

安藤:オレの中では、あれが一番酷いレースだったと思ってますからね。

西川:頭の中に焼き付いているんじゃないですか。何回ビデオを観ても、やっぱりゴール板を気にして、ユタカちゃんの方をキッと見ているもんね。完璧なレースをしてやられていると、僕は思っているんですよ。みんな、「横を見ないで、もうちょっと追えば良いのに」と言っていたけど、あれは一杯だよと、その時に思っていました。競馬って、これが勝負だから、ハナでも10馬身でも勝ちは勝ちだから。そういう部分では、あれはダイワスカーレットの力を十二分に出したレースだったと思いますよ。要するに、負けて悔しかっただろうなという。僕もやっぱり悔しかったですよね。

安藤:あの時の天皇賞(秋)は今までで一番酷いレースをした。というのも、競馬前から多分まともな競馬はできないと思っていたのです。というのも、調教でまともに乗れなかったもん。いつも坂路2本を登るところが、1本目から耐えきれんで時計になっちゃって。500を4周乗ってから坂路2本や、全然操作が利かなかったから。最初からそうやって不安で……。競馬でも全然折り合いが付かんだろうなと思ってたら、ゲートを出たらもうムキになって行っちゃって。絶対に4コーナーを回ったら馬群に沈むと思っていました。それでも、あれだけ走るんだから、次の有馬記念は絶対に勝つと思って。

西川:特にうるさい牝馬なんかは、調教で引っ掛かっちゃったら……。

安藤:元々ガッと行きたがるところがあったのが、あの時は特に……。当時の松田国厩舎は、いつも前に馬を何頭か置いて山(坂路)に出てたんですよ。だから、我慢しているとジャンプして、前の馬に乗っ掛かっていっちゃう。

西川:レースでは全然そういう風に見えないですね。

安藤:あの馬は、本当にスタートから出していった時がないのです。真っ先に出て、知らん間に行っちゃうから。そういう気性は最初からですね。


-:ファンの方にとって、馬主さんは一般的に詳しく知られていない部分があるので、そのことについて聞かせてください。西川オーナーが20歳から馬主になられたというのは、今では考えられないことです。

西川:その当時は、村田英雄さんが馬主になって、北島三郎さんも所属していましたし、みんな馬が好きだったんです。親父が何で僕に馬を持たせたかと言うと「馬は何億稼いでも飯代は一緒」という信念ですよね。「何億稼げば何億買えというのが種元だから、だから俺は馬が好きなんだ」と言っていました。タレントってコマーシャルなどをすれば言わず語らずで、事務所がこれだけ取って、君はこれだけだよ、という、あうんのモノがあります。馬の世界は「ちょっと話があるのですよ。今日ハナ差で勝って、G1で勝って1億入ったのだから8000万くれ」とは言わないよね。

タレントは絶対に言うし、そういう意味で、親父はそちらに行ったんでしょうね。それに、やっぱり怠けませんから。「ゴール板を過ぎるまで、死ぬ気で馬は走るんだ」と。まして上にいる人間の言うことを聞いて、ステッキを入れられながら。それだけ厳しく教育をして、訓練をして、学習能力を与えてタレントつくりをすると。そこだと思うのですよ。


-:そこで馬主になってみろという話だったのですね。

西川:僕の場合は15歳で歌手デビューしたのですが、17歳で「新聞少年」という歌が売れたのです。その歌で所得もクリアできたし、資産もできたので、馬主免許も取得しちゃえよと。そうやって、周りのタレントに取らせたのです。

安藤勝己×西川オーナー

▲若くして歌手として成功 史上最年少で馬主資格を取得した西川会長


安藤:今じゃ、そういうのは全くないよね。20歳でもう馬主というのは。

西川:僕の、最年少馬主の記録は破られていないでしょう。個人馬主になって、それから5~6年経った時に西川商事という法人を創ったのですよ。僕が馬主になった時に最初持った馬が、サツキタロウという馬で新馬勝ちをしたのです。その頃はトサミドリ、ゲイタイムという時代ですが、そんな時代の調教師が親父に頭を下げて「この馬を買ってくれませんか」と言うので「これは太郎の名義にしとけよ」と、名前はちょうど五月みどりと親父が一緒になった頃だったので、サツキタロウと付けたら新馬勝ちしちゃって。その次に持ったのがリバーホマレ。何か馬運が良かったんですよ。その当時はウエスタンという冠は付けてなかったの。

安藤:新聞少年は昭和40年頃でしたよね。

西川:アンカツさんの歳ぐらいまでの人しか、おぼろに覚えていないと思う。小学生かそこらで口ずさんだぐらいで。もっとちっちゃい時かな?

安藤:小学生くらいだったと思いますけどね。覚えているくらいだから。お父さんに口ずさんでもらったんだったかな。

-:新聞少年が馬主になったキッカケだったということですね。

西川:そうですね。しかし、中学生の頃から親父が馬を持っていたから、学生の頃から競馬は観ていましたよ。競艇や競輪も観に行って、競輪選手に友達がいたから。