ドーベルらを輩出 そして受け継がれる師弟関係・大久保洋師
2015/2/22(日)
メジロドーベルとの出会い
-:なるほど。では、馬の仕入れについて伺いたいのですが、セリのときなど、先生はどういう点をチェックされていましたか?
大:ウチの場合は、セリなどにはあまり行かず、仔分けというのが多かったですからね。メジロの馬が多かったでしょう。メジロの馬というのは自家生産ですからね。それで母馬がうちのところにいれば、その子供はやらせてもらうことが多かったです。メジロドーベルなども同じことです。祖母のメジロナガサキ、そのお母さんのメジロボサツ、その上のメジロクインまで父が見ていました。メジロ牧場の基礎繁殖牝馬の内の1頭でしたし、その系統の馬は結構稼いでくれましたね。
-:先生の中で思い出の馬というのは何頭もいると思いますが、その中から1頭を選ぶとしたらどの馬になりますか?
大:誰が見てもメジロドーベルしかいないでしょう。強い馬でしたし、競馬に行って不利を受けることもなかった。そういった運の強さもあったと思います。
-:メジロドーベルのレースで、印象に残っているレースというのはありますか?
大:馬の状態や相手関係、競馬の仕方とか考えて、一番自信を持って臨んだレースは秋華賞でした。この時は最高の状態に持っていけたと思いましたが、そんなに全てが上手くいくなんてことは、ほとんどないんですよ。他の調教師もそうだと思いますが、仕上げ過ぎただとか、少し足りなかったとかはよくあるんです。この時は全てが噛み合って最高の状態だったと思いますよ。
-:1つ勝つのも難しい世界だと思いますが、その中で先生がやりがいとして感じてきたことは何ですか?
大:父が管理していたメジロムサシは凱旋門賞にも出ましたし、そういった一流の中で競馬ができたら良いなというのはありました。結果は何とも言えませんが、一応、香港に2回、ドバイに1回行きました。結果はパッとしませんでしたが、そこまでは行けたのかなと思っています。
-:調教師業の醍醐味というのはどこにありますか。
大:やっぱり大きいレースで勝つことですかね。調教師としても、競馬が行われているうちはずっと名前が残りますからね。歴史に名を刻むというのかな、そこにやりがいというのも感じますよ。ダービーを中心としたクラシックだったり、G1というのはみんなの目標ですからね。馬主さんも牧場の方も含めてになりますが、なかなか上手くいかないんですよ。15回か20回やってみて1つ勝てたら良いなというぐらいです。でも、そういうのがあるから勝った時が嬉しいですし、それがあるからずっとやっていけるんです。実際には悔しいことの方が多いですけどね。
-:悔しさで忘れられないレースというのはどのレースになりますか?
大:メジロファントムが2年続けて天皇賞2着になって、有馬記念でも2着になったことですね。これはやっぱり悔しかったですよ。あの時はG1という冠はなかったですが、いわゆる大レースでしたから勝ちたいとは思っていたんですけどね。悔しい思いは覚えているものです。
吉田豊騎手との師弟関係
-:あと数日で引退の日を迎える訳ですが、後輩に向けてメッセージはありますか?
大:ウチから育った調教師は4人いますが、それぞれに色々と話しはしました。ただ「俺と同じことをしていたら俺には勝てないぞ」ということは言いましたよ。自分なりの工夫をしなさい、と。真似をするのは簡単です。それは昔から同じことで、教えてもらったことを自分なりに工夫して、そういうのが続いて今がある訳です。もちろん同じことをしていれば、同じぐらいのレベルにはなるかもしれませんが、上には行けません。なので、それぞれ自分なりの工夫はしていると思いますよ。
-:あとは、先生の厩舎にとって吉田豊騎手の存在は欠かせないと思います。
大:豊にとってデビュー3年目にメジロドーベルと出会えたのは大きかったと思いますし、幸せだったと思いますよ。この馬で競馬を覚えたというのはあると思います。大きなレースで勝つためにはどのような競馬をするのか、そういう意味では一番影響が大きかったのではないでしょうか。
-:先生が吉田豊騎手を育てるにあたって、特に注意してきた点はありますか?
大:私は、アイツが勝っても褒めたことがないんですよ。
-:え?そうなんですか。
大:競走馬は、牧場で生産されて育成されてきます。それから私たち調教師のところにやってきて、厩務員や調教助手、装蹄師など色々な人の手が掛かって、やっと競馬まで行けるんです。ということは、ジョッキーは一番完成された状態で乗るわけです。それで馬の良さを出すとのは当たり前なわけで、それを出せないのではダメなんですよ。「結果を出して当たり前」そういうことは何回も言ってきました。その馬が能力を出せるというのは当たり前なのですが、出せないことの方が多かった、だから何度も言ったのだと思います。
-:では、先生から見て、いい加減だなと思うような乗り方だった場合は……。
大:それは頭を引っ叩きましたよ。何回もしたことがあります。今は引っ叩くと問題になりますけどね(笑)。
-:そうなんですね、さて、先生の調教師生活もあと僅かです。
大:神経を使うことも少なくなりますし、凄く楽になりますね(笑)。これから現役生活を続けていく馬はたくさんいますが、あとは転厩先に任せましたからね。何か聞かれれば伝えますが、もう大体のことは伝えました。皆、資格は持っているので、ちゃんとやれると思いますよ。
-:引退したら、やってみたいことはありますか?
大:ゴルフは好きなのでやりたいですよ。他にも色々やりたいことはありますが、自分の時間が増えるでしょうし、十分にやれるようになると思います。
-:今、欲しい物はありますか?
大:特別、欲しいものはないですね。これまでは時間が欲しかったのですが、これからは大丈夫になるのでね。これからやることについても準備はできているし、特にはね。ああ、でもゴルフで言えば、良いクラブが欲しいかな(笑)。
-:ゆっくりクラブを選ぶ時間もできますからね。貴重なお話をありがとうございました。
(取材・写真=競馬ラボ 写真=武田明彦、競馬ラボ特派員)
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プロフィール
【大久保 洋吉】Youkichi Ohkubo
父親、祖父が調教師という競馬一家にて幼少期を過ごす。大学卒業後は一度、建築関係の仕事に就くが、父の業務に携わる機会もあったため、競馬の世界へ。調教助手の期間は4年と短く、28歳という異例の若さで調教師へと転向。ともに2月いっぱいで定年を迎える鈴木康弘師らと、定年制度の基礎づくりに大きく関わることとなった。
調教師としてはメジロ牧場の馬を多く管理。メジロドーベルで一時代を築いたことは、周知の通りだが、ショウナンカンプなどのG1ホースも生み出す。「自分のために働くこと」をスタッフには説き、関東を代表するトレーナーへと上り詰めた。20年以上のキャリアを積むベテラン、吉田豊騎手がデビューから未だに所属騎手であるように、現代では珍しい師弟関係を結んでいる。
1944年東京都出身。
1976年に調教師免許を取得。
1976年に厩舎開業。
初出走:
76年12月4日4回中京3日目11Rカツラトウショウ
初勝利:
77年2月5日2回東京2日目12Rヤノガイセイ