2003年。上山競馬場が閉鎖され、東北・山形から競馬の灯が消えた。ひとりの青年がその瞬間を目の前で見ていた。青年は"調教師になりたい"という想いを心に抱き勉強と経験を重ね、難関の試験を突破しついに夢を叶え、この春、栗東で自らの厩舎を開業する。上山閉場から今年で22年。上山競馬の灯がまた灯る。

受け継がれる上山の魂 "当たり前"がなくなった日

——今回は新規開業の佐藤悠太調教師にこれまでとこれからについてじっくり伺います。いよいよ、悲願だったご自身の厩舎を開業されますね。

本当に色々な方々のおかげで今を迎えられたと思っています。感謝の気持ちしかありません。支えてくださった皆さんに競馬で喜んでいただけるよう、厩舎スタッフの皆さんと協力しながら、これから一頭一頭に対して、一つ一つ、丁寧に向き合っていきたいです。

——まもなく開業ということで、忙しい日々を送られていると思います。※取材は2月中旬

今は引き継がせていただける馬のこと、そして解散厩舎以外からもオーナーさんからお声がけいただいている馬がいるので、その馬の状態を把握する動きをしています。あとは厩舎で使用する道具の準備ですね。馬具を揃えたりもしていました。

2月になると入る厩舎の中に色々な物を搬入できるようになるんです。馬具もそうですが、馬具庫や飼料庫の改造をして準備していました。

——新厩舎は以前どの厩舎が入っていたところなのでしょうか。

それまで昨年開業した藤野調教師が使われていたところです。ここに一度入り、約1年後に今年解散される鮫島一歩調教師が使われている厩舎に移る予定になっています。

助手として在籍していた寺島良厩舎の向かいで、診療所も近く、調教の動線的にも非常にいい場所だと感じています。運良くこの場所を使わせていただけることになりました。ありがたい話です。

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——先生はお父上の佐藤茂調教師が閉場となった上山競馬場、そして現在は金沢競馬場で調教師をされていて、ご祖父の佐藤英一元調教師から数えて3代続く調教師となりました。いつ頃から調教師という仕事に憧れを持ったのでしょうか。

小さい頃、それこそ小学校低学年の時から毎週末、上山競馬場にあった父の厩舎に行って、日曜は一人でレースを見ているような生活でした。自然と競馬の世界に行きたいとは思っていましたが、調教師になりたいと思ったのは小学校4年生、5年生の時でしたね。

ジョッキーへの憧れもありましたが、父も体は大きいほうでしたし、自分も体重があったほうだったので厳しいだろうなと。目標は調教師になりました。

——調教師になりたいと言った時の父・茂調教師の反応はいかがでしたか?

なりたいという話自体はそこまでしていませんでしたが、父親も「自分の人生だからやりたかったらやってみなさい」という感じでしたね。

——上山競馬場は今から20年ちょっと前の2003年11月11日に閉場となりました。今でもご自身のルーツ、上山競馬場を思い出すことはあるのでしょうか?

ありますね。跡地はもう製薬会社になったりしているのですが、跡地の近くでは祖父母が元気に暮らしていることもありますし、上山に帰ることもあるので思い出すことはあります。

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競馬場がある頃は厩舎から自転車で5分ほどのところに住んでいたんです。小さい時から自転車で厩舎に行って、競馬場のスタンドの厩務員さんたちが見ているところにチョコンと座って競馬を見て…。

中学の時はサッカー部で忙しかったのですが、小学生の時は休みになれば父と同じ時間に起きて、3時から寝藁を上げて調教を見て、スタッフさんや調教師の仕事のマネをしたりしていましたね。

——そんな小学生はそうそういないように思います。

そうかもしれませんね(笑)。朝昼と寝藁を上げて、エサもあげたりして。父も祖父も調教師だったので、それが自然だったんですよね。身近に当たり前のように競馬があって、調教師という仕事があったんです。

——その"当たり前"が目の前でなくなるという経験をされました。

そうですね。中学3年生の時の上山競馬場の閉鎖は本当にショックでした。今でも鮮明に覚えています。それこそ廃止反対運動にも参加した記憶があります。あの時代はどの競馬場も続かなくて、色々な競馬場が廃止になったんですよね。

——閉場の1ヶ月半前に行われた交流重賞・さくらんぼ記念武豊騎手騎乗のストロングブラッドが勝って盛り上がった記憶があります。

懐かしいですね。あの時競馬場にいっぱい人が入ったことは今でも覚えてます。

——競馬場が廃止になる光景を目の前で見たJRAの調教師の方は少ないかもしれませんね。

地方の競馬場出身の方は結構いらっしゃいますが、どうでしょうね…。ただこうしてまた違う環境で調教師という仕事をさせていただけるのはありがたいですし、本当に感謝の気持ちしかありません。感謝の気持ちを持って一つ一つ、頑張っていきたいです。

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——数ある選択肢の中から、"JRAの調教師"を目指した理由を伺いたいです。

父が金沢競馬さんに移籍させていただいて、もちろん地方でという選択肢はあったかもしれません。ただ競馬場が潰れるという衝撃は大きかったんです。

父を見ていても辛そうなところはありましたし、自分が家族を持った時のことを考えました。JRAはテレビでも見ていましたし、自然とJRAを目指していましたね。

——廃止が決まる前後の茂調教師の落ち込みぶりは相当なものだったのでしょうか。

そうですね。あの時はその先どうなるか分かりませんでしたから。金沢競馬さんに拾っていただいたから今がありますし、拾っていただけなかったらどうなっていたか…

——競馬場がなくなったことで家族が離れ離れになる経験をされたとか。

3つ下の妹がいるのですが、山形の中学、高校を選択したいということもあって、父は単身赴任で金沢に行ったんです。スタッフの皆さんも上山が廃止になって牧場に行った方もいますし、南関競馬に行った方もいますし、バラバラにはなりましたね。

苦節7年、"先輩"、"同志"に支えられトンネルの先へ

——そのような経験を経た先生ですが、難易度が高い調教師試験、7度目の挑戦で合格を掴み取られました。20代後半からの挑戦で、試験は苦労の連続だったと伺っています。

本当はもっと早く受かりたかったのですが、なかなか受からず、もちろん仕事をしながらですが毎日勉強のことを考えていました。常に試験のことは頭の中にありましたね。

なかなか受からない中で色々な先輩調教師の皆さんにアドバイスをいただいたり、仲良くさせてもらっている東田明士調教師高橋一哉調教師といった"同志"と共にずっと勉強させていただくことで、色々なことを吸収することができました。本当にキツかったものの、なんとか免許をいただけて良かったです。

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共に調教師試験合格を果たした高橋一哉師(中)、東田明士師(右)

——一次試験を突破するまで4度落ちるという経験もされました。

理想では3度目で一次試験を突破したいという思いはあったんです。でも3度目もダメで、4度目の時は今年は絶対突破しないとという思いでした。それだけに4回目の試験で一次で落ちた時は本当に苦しかったです。その時は自分なりにやっていたとは思いますが、今思えば全然自分に甘かったですし、もっとやれたと思います。

あの頃は夢の中でも勉強が出てきました。妻からも「あの頃は夜中、歯ぎしりが止まらなかった」と言われます。試験が近づくと体に発疹ができたり、相当なストレスはあったかもしれません。

5回目の試験の時にやっと一次試験の合格発表者に自分の番号があって…。光が見えない真っ暗なトンネルを歩いているような5年間でしたし、正直あの頃には戻りたくないです。

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——4回目に一次試験で落ちた際、心は折れなかったのでしょうか。

折れていたと思います、完全に。ただその時、同じ調教師の勉強会で一緒に勉強していた小栗実調教師が一次試験に合格して、二次試験に行ったんです。小栗調教師が頑張る姿は見ていたので、そんな小栗調教師に引っ張ってもらったところはありますね。

茶木太樹調教師長谷川浩大調教師など、あの世代の調教師の皆さんにも励ましていただいて、何とかもう1回、もう1回という気持ちになりました。

さすがに一週間は立ち直れませんでしたが、そこからもう切り換えないとと思って、二次試験を目指す皆さんの勉強のお手伝いをさせていただく中で徐々に切り換え、来年こそやるしかないという気持ちになりましたね。

二次試験では求められるものが一次試験とはまた違いましたが、勉強だけでなく、より調教師となるための人間的資質を問われていたので、先輩調教師の皆さんがオーナーさんや牧場の皆さんとのやり取りで何を気にかけているか、そしてどのように従業員さんをまとめているか、結果を出すために何をしているかを気にして見るようになりました。

そんな中、安田翔伍調教師はご自身がお忙しい立場であるにも関わらず、二次試験の練習にとことん付き合ってくださったんです。

厳しい練習でしたが、そのおかげで鍛えられました。あの時のアドバイスが今、とても役に立っています。二次試験は翔伍調教師のおかげで受かったと言っても過言ではありません。本当に感謝しています。

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"恩人"のひとりである安田翔伍師(左)

二次試験に進むようになってから3回で受からせていただきありがたかったですし、この3年間も大変でしたけれど充実した大変さでしたね。その前の4年間とは違いました。

——これだけの難易度の試験を共に突破した高橋一哉調教師、東田明士調教師は戦友であり、ライバルですね。

そうですね。本当にいい友人に恵まれたと感じています。3人で絶対合格しようということを誓い合い、情報交換も密にしていました。

合格は同期とはいえ高橋厩舎は先に開業することになりましたが、身近な先輩調教師なので、結果を出すためにどういう調教をされているか、どういうレースを選択されているかはよく見ています。

——23年12月、調教師二次試験の合格発表を目にした時の涙が印象的でした。

あまり泣くほうじゃないんです。ただあの時はやっとスタートラインに立てたという気持ちから、勝手に涙が出てきました。自分でもビックリしました。

所属していた寺島厩舎、その前に所属していた田中章博厩舎の時からお世話になっているオーナーさんたちからも連絡をいただいてありがたかったですし、牧場の先輩や色々な方々に祝福していただいてホッとしましたね。

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23年ホープフルS、寺島厩舎のホルトバージを引く佐藤師(鞍上は今村聖奈騎手)

——ご家族の支えも大きかったのではないでしょうか。

そうですね、勉強ばかりしていたので普段からだいぶ迷惑をかけていましたし、大変感謝しています。娘が生まれる前、それこそお腹にいる時から勉強していたんです。娘が小学校に入る前までには受かりたかったのですが、先に娘が小学校に入学して負けてしまいました…。

——娘さんはパパが凄い試験に合格したことを分かっていらっしゃるのでしょうか?

分かっているかどうかは分かりませんが(笑)、娘にとっては凄く勉強している人が身近にいたのは良かったかもしれません。お父さんは部屋で鉛筆を握って勉強している人というイメージが強いかもしれませんね。

——合格の報告を奥様にされた時の、奥様の反応も伺いたいです。

妻のほうが冷静でした。「色々な方々の支えがあって、応援してもらってやっと合格したんだよ。ここがスタートラインだから。ここで終わりじゃないから」と言われましたし、本当にその通りだと思います。もちろん凄く喜んでくれましたが、妻のおかげでしっかり切り換えることができました。

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——ご両親も喜ばれたのではないでしょうか。

父も私がなかなか受からないところを見てきましたし、その中で何も言わずとも応援はしてくれていました。そんな父に合格報告をできたことが良かったです。

母も調教師になりたいという私をずっと見てきていましたが、父が仕事人間だったこともあって、むしろ妻のほうに「ごめんね色々迷惑かけて」と言っていたみたいです。

父もなかなか調教師試験に受からず、私と同じ歳の時に調教師になったんです。私も小さい時に父親が部屋に籠って勉強しているのは記憶にあって、たぶん母はその時大変だったはずです。私にというより、妻の相談に乗っていたようですね。間近で見てきた経験があるので。